眼が醒めたら午前3時少し前、いつもビバコが激しく鳴いて、起こされていた時間だった。どうしてこの時刻になるといつもあんなに鳴いたのか……。そんなことを考えながら、ビバコのベッドに行って、手を合わせた。
昨日は福岡の村津先生が追悼のために、素晴らしいお花を贈ってくださった。以前、奥様と愛犬談義をしたことがある。そこで今回、ビバコを応援してくださった方のみにお送りしたメールでお知らせしたところ、思いもかけずに素敵な白いお花が届いた。本当に嬉しく、涙が出た。ビバコの寝ていたベッドサイドがひときわ美しく輝いた。
ここは今や祭壇のようになり、お花や、ビバコの写真や、思い出の品、ビバコがよく遊んだぬいぐるみや、「バビコ」といって、ビバコの闘病中、ずっとビバコを守ってくれたわんちゃんの置物などで飾られている。
パソコンの前に座って仕事をしようかと思い、ふと気が付けば、何と、緊急で書かねばならぬ原稿がなかった。こんなことはあり得ないことだ。本当に不思議なことだ。
27日の朝、単行本の原稿を書き上げ、メールで送った時、送信時の時間とほぼ同じタイミングでビバコは旅だった。
そしてその日から3日間、大きな仕事の予定はなく、取材も打ち合わせも締め切り原稿に追われることもなかった。
今日の午後からまたいろいろな仕事が入ってくるのだが、この3日間、仕事のことを考えることなく、ビバコとともにだけ居られ、泣きに泣いた。ビバコは、ここまで計算して旅立ってくれたのだろうか。なんて優しくて、賢くて、飼い主思いの子なんだろう。
5月は実に多忙だった。3日におさらい会で舞囃子の『杜若』を舞った。10日は『能リア王』のお手伝いのアナウンス、翌日は国際融合文化学会での発表、12日はヒューマンギルドでの講演、16日に新刊『眠る前の7分間!』の見本が出、『ゆうゆう』という雑誌で、朝時間の過ごし方の取材を受けた。
さらに5月末が締め切りの単行本の執筆にかかりきりになり24〜25日と下仁田への旅行があった。特に下仁田に行った時は、2日間家を空けたのでとても心配だったが、ビバコは頑張って待っていてくれた。
下仁田から戻ってきたときは、かなり衰弱が激しかったが、それでも生きていてくれた。
でも、このときは、もう強引に生きることを求めることはできなかった。
ビバコがあまりにも苦しそうだったので、できる限りのことはするけれど、後はビバコの意思に任せようと思っていた。
それまではビバコが生きてくれることだけを願ってきた。闘病中に2回ほど、黄泉の国まで行ってビバコを半ば強引に連れ戻したような気さえする。昨年3月と10月の大きな発作の時だった。ずっと、ビバコと共にいたくて、力づくでも、この世に縛り付けていたかった。私の命と引き替えでもいいから、いつまでも生きていて欲しかった。でも今回は、もはや、その強引さを出せなかった。ビバコの衰弱ぶりとビバコの決心が固かった。
延命と若返ることは違う。加齢は過酷で、不可逆なものだ。もうビバコは若返ったりはしない。昔のビバコに戻ることを期待してはかわいそうだ。1度目の発作の後、ビバコがとても元気になったことがある。でも足腰が弱ってきて、あるとき、私の所にこようとしたら、後ろ足が立たず尻餅をついてしまった。
そのとき「え? どうして?」と不思議そうな顔をして、驚いたように私を見つめた。「どうして尻餅をついちゃうの?」といいたげなビバコの顔は切なかった。
闘病中に、よくなることを願うことはできたけれど、しかし昔の元気なビバコを望んでも、あの若い盛りのビバコには決して戻ることはない。こればかりは逆らえない。
ビバコの闘病中、私はこの日記をあまり書けなかった。理由は2つある。ひとつは、闘病しているビバコにたいして、励ますのが精一杯で、主観を入れた日記を書くことなどはとても不可能だったからだ。
もちろん記録はつけていた。何時におしっこをして、何時にうんこをして、いつ痙攣があって、というような健康管理の記録は日々つけてきたが、これは公開するものではない。
もうひとつの理由は、ビバコの生きる勇気やエネルギーや苦痛をリアルタイムで記録するには、あまりにも言葉が薄っぺらなような気がしたからだ。ビバコの闘病は神聖すぎて、言葉に落とし込めなかった。それにビバコの最後の闘病の姿を書くのはあまりにも痛々しい。記録のために写真を撮るのも止めた。
かつての思い出に浸ることもしなかった。昔のビバコを思い出すことは、闘病している今のビバコを否定してしまうことになる。現実のビバコを応援し、励まし、見守ることが、何よりも今のビバコにとって必要だった。
今の苦しんでいるビバコをそのまま受け入れ、肯定することだ。それ以外のことを望んでも、ビバコがかわいそうだ。
ビバコが闘病中の6カ月は、寝ている姿しかみていないから、外を歩いている犬が元気にジャンプしたり、走ったりしているのを見ると驚いてしまうようにさえなった。すでに家の中でビバコが歩いたり、走り回ったりしていたことすらもすっかり忘れていた。
でも不思議なことに、ビバコを埋葬した夜から、昔のビバコがたくさん現れた。元気で若くて、エネルギーに満ちあふれているビバコだった。家の中でいつも私の後をついてくるビバコだった。私がお風呂に入っているときは、いつも脱衣所でくんくんいいながら待っていた。トイレにもついて入りたがって、トイレの外からカリカリ音をたてて戸を開けようとしていたことや、家に帰ると玄関で待っていてくれたことや、私の足下や、お尻の後ろで居眠りをしていたビバコや、庭に出たくて、網戸を開けようとしている姿や、庭で雑草を食べていたビバコ……。16年間の歳月がどっと流れ込んできた。
亡くなるってこういうことなんだ。現実生活では大切なビバコの存在を当たり前のことのように感じていた。だから多忙を極めると、一緒にいても意識は共にいないこともあった。
しかし亡くなってしまって今日で4日、ビバコの思い出だけを噛みしめてきた。濃密なビバコと過ごす時間だった。
闘病中に封じ込めてしまった思い出が次から次へと現れ、たくさんのビバコが私の前にあらわれて、おどけて見せたり、笑ったり、怒ったりしていた。
お悔やみのメールでもビバコとの思い出を書いてくれる人がいて、それを読むと、「ああそうだ。そんなこともあったね。ビバコ」と、当時のビバコはもちろん、当時の若かった自分のことまで思い出された。
時間が流れるって、こういうことなんだ。ビバコとは長い時間を共有したが、ずっと相思相愛で、毎日、ビバコが大好きだった。
初めて家にきた翌朝、ビバコに朝の挨拶をして以来、朝起きてビバコと挨拶できる日は、それだけで幸せだった。
思えば子供の頃からチワワが欲しくてたまらず、かわいい犬のぬいぐるみを大切にしていたが、その後、30数年の夢が叶って、やっと巡り合ったビバコだった。あの時の犬のぬいぐるみにそっくりの子だった。
ビバコは夢の実現と愛と信頼と勇気を教えてくれた。本当にありがとう。ビバコ。
ビバコに会ったのは1992年8月24日。飛行機でたった一匹、神戸からやってきた。当時の私は心身共に健康を害していて自分に自信が全くもてない時期だった。
ところがビバコと会うやいなや、ビバコは私を受け入れて、すぐに信頼し、絶大なる愛を注いでくれた。こんな私をこんなに愛してくれるなんて! そのときの喜びといったらなかった。そして、いつしかビバコから愛と信頼を学び、それから私の人生も大幅に変わっていった。ビバコはまさに天使だった。本当に美しくてかわいい天使だった。
翌年の11月2日に、ビバコの瞳のようにきれいなブラック・サファイヤのリングを買った。この指輪は長いこと使わないでいたが、モーニング・ジュエリーとして、しばらく身につけようと思う。
それからもうひとつ、2004年12月に1880年頃に作られたローズカットのダイヤモンドがついているロケットを買った。
このロケットを買うとき、アンティークを扱っている方から「こんな素晴らしいロケットを手に入れられてよかったですね。どなたの写真を入れるのですか?」と聞かれた。そのとき即座に答えたのが「ビバコ」だった。
結局、すぐに写真は入れないで使っていたが、今回、ビバコのメッセージとして、「毛を切り取ってもっていて」というのがあったので、美しい金色の毛を少しいただき、ロケットの中に入れた。このロケットを胸にさげると、ビバコのぬくもりが伝わってくる。
火曜日の10時から起きた一連のできごとは、まるで夢の中のように、現実味がなく、不思議な感覚だ。まるでビバコと共に悲しい異次元の空間に入ってしまったみたいだ。
今、こうしていても、たまにビバコのため息のような声が聞こえて、思わずビバコのベッドを見にいってしまう。
そこにビバコの肉体はなくても、ベッドに触れると、まだぬくもりが感じられる。
窓を開けると、ビバコが遊んだ庭の植物も喪に服してくれているように寂しげだ。
かつてビバコが私の不在時に遠吠えをして悲しさを表現していたように、私も「ビバコ、帰ってきて」と庭に向かって遠吠えをした。