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ビバコの49日
昨日は裕子さんがお墓参りに来てくれて、共にビバコを偲んだ。

この49日は、不思議な空間の中で生活していた。そして、とにかく踊って、仕事をしていた。そのほかの時間は、仕事の合間にペットショップがあればふらふら覗いてみたり、犬のボランティアをされている方とお目にかかったりしたけれど、やはり仕事と舞の時間以外は、「物狂いの女」になっていた。

仕事や舞の行き帰り、必ず空を見上げてみた。昼でも夜でも空に雲があると、そのどこかに必ずビバコの顔が見えるからだ。本当にかわいいビバコの顔だ。だから、いつも空を見上げながら、ビバコの顔を探し、涙と汗をだらだら流しながら歩いているのだから、尋常ではない姿である。でもビバコは必ず何かを伝えてくれる。

6月は空白の1カ月だった。仕事はしていたけれど、あの5月27日から私の時間は完全に止まっていた。改めて気が付いたら7月も中旬になっていた。

さすがに7月13日の日曜日になったとき、取材が二つも重なり、かけもち取材の後は、ほとほと疲れ切ってしまっていた。この週は舞もすごい勢いでやっていたし、アレキサンダーテクニークも、仕舞もやったので、身体も疲れてはてていた。

「仕事し疲れた、踊り疲れた。もはやこれまでか……」などと思いながら、重い身体を横たえて茫然としてお風呂に入っていたら、ビバコの声が聞こえてきた。

「ナオちゃーん。がんばって! ビバコもお空で頑張っているからね」と。そして「お風呂から出たら『天使のオラクルカードを引いて。ビバコのメッセージだよ』」というのだった。

明るく、かわいらしいビバコの声に、疲れも癒され、お風呂から出てオラクルカードを引いてみた。

何と! ”Guardian Angel”のカードだった。解説を読むと「守護天使」。そして「あなたは決して一人ではありません。このカードは守護天使からのラブレターです」とあった。ビバコが守護天使になってラブレターをくれたのだと感じた。

49日が経過し、ビバコの霊はあちらにいってしまった。でも「守護天使になった」というメッセージを残してくれた。ビバコ、本当にありがとう!

| - | 13:19 | - | - |
七夕
ビバコが生きていたら迎えられた6月28日の誕生日。ビバコのお墓に行ってビバコを偲んだ。ビバコが亡くなって1カ月と1日。

こんなに長い間、会えない日が続くのは不思議だけれど、ビバコの不在感は、仕事と踊りで何とかしのいできた。

仕事や踊りをしているときは、それに意識が向かっているので、ビバコのことをそれほど思い出さないのだが、悲しくなるのは、仕事や踊りの帰り道。

家路に急ごうと思うのだけれど、家に戻ったところで、もうビバコがいないと思うと悲しくてやりきれなくなる。

それから午前3時頃。ビバコがいつも鳴いていた時間になると、眼が醒めて、しばし祭壇に向き合うのだ。

 7月1日のことだった。朝、所用で代々木上原に行ったのだが、帰りになぜか代々木八幡で降りたくなり、歩いて帰ることにした。

途中、代々木公園があるので、その前を通った時に、吸い込まれるようにして公園に入ってしまった。

昨年の今頃は毎日のようにビバコと一緒に来た公園。でもビバコが秋に倒れてからは、いずれ一緒に行きたいとは思っていたけれど、ついに一緒にくることはできなかった。

だからしばらく来ていなかったのだ。でも何とも懐かしくて、ついふらふらと中に入った。しかし、大変なことになってしまった。

 ビバコの思い出が一気に立ち上ってきたからだ。ビバコは他の犬がいるといやがるので、いつも人があまり来ないひっそりとした道をビバコと二人(一人と一匹)で歩いていた。

そのひんやりした道を歩き始めたら、今まではいつも一緒に歩いていたのに、なぜ、ビバコがいないのだろうとパニックに近いような気持になった。

ドッグランに行ってみたら、多くの犬が遊んでいた。かつて早朝などは、ほかに犬がいないのを見計らって、ビバコをドッグランの真ん中に連れていったことがある。ビバコは、真ん中で固まっていた。

たくさんの犬が遊んでいるドッグランの中で、そんなビバコの姿がありありと浮かんできて、もはやその場にはいられなくなり、涙をだらだら流しながら、引き返した。

サングラスと帽子をもっていてよかったが、これほど、ビバコの不在がつらいとは……。

取材をしていたり、踊っていたり、原稿を書いているときは、気が付かなかったけれど、ビバコの不在の大きさはかなりなものだと今更ながら気が付いた。

 そして昨日7月6日、あるご縁で、ある人達と会い、話をしながらチワワとプードルを抱かせていただいた。

ビバコがいるときは、他の犬をさわるだけで、ビバコがいやがるようなので、他の犬を触ったり、抱いたりしたことはなかったのだが、その方は、私の心の寂しさを知って、チワワとプードルを抱かせてくれた。

ビバコとは違うけれど、でも明らかに犬のぬくもりがあった。そして本当に切なかった。ビバコとは、毎日こころの中で話しているし、写真を見ているけれど、どうしても手に入らないのが、このぬくもりなのだ。そして匂い。

 しかも別れるときに、その人から「ビバコちゃんが、ずっとお膝に座っていましたよ。お会いした時からずっと一緒にいるのがわかりましたよ」といわれ、一気に悲しみのスイッチが入ってしまった。道路にぼたぼたと涙が落ちた。

その人達もペットロスを通り抜けてきた方達だったので、彼女たちの体験を話してなぐさめてくださったが、泣けて、泣けてたまらずに、その人達と別れてからもずっと泣いていた。

その後、仕事もしたし、踊りもしたけれど、この悲しさは強烈で、なかなかまぎれることがなかった。

どんなときでもビバコは側にいてくれるのだと思う嬉しさと、でも触ったり、見たりすることができない悲しさが交互して、泣き続けていたものだから、体内の水分が枯渇してしまったように喉が渇く。水分を補給しながら泣いているようなありさまだ。

 今日は7月7日の七夕。ビバコに会いたい。
 
| - | 09:30 | - | - |
大空に浮かぶビバコ
悲しいときは身体を鍛える。
悔しいときは勉強する。
嬉しいときは分かち合う。
をモットーにしているので、ビバコがいなくなってしまってからずっと毎日踊り三昧。ボディワーク三昧だった。
介護生活中は、自分のボディケアなどはできなかったので、ぶよぶよ、しなしなボディになっていた。身体は粘土と同じだ。1カ月足らずの集中で、みるみるうちに変化してきて、引き締まり、姿勢が調整されてきた。

 土曜日(21日)は気舞と中国舞踊とボディワークの講座があり、午前中は取材をかねてあるクリニックに行き、採血をした。血をとられたら急に頭がくらくらし始めた。「貧血が起きそうです」というと、婦長さんのような方が、「大丈夫よ。子どもだってこのくらいの量は採血して何ともないし、献血する時なんて、こんなもんじゃないのよ」とおっしゃった。「それもそうですね。気のせいですよね」といいながら、何だか看護士さんの言葉が遠くに聞こえて、気が付いたら椅子の横に倒れていた。「あれ、何で、こんなところに?」と思ったら、看護士さんがベッドに運んでくれてしばらく寝ていた。本当にしばしの間、気を失ったようだ。これを失神というのだろうか? 初めてのことなので驚いた。

 この後、気舞と中国舞踊とボディワークをするのは不安でもあったが、しかし、休むわけにもいかないと思って、おそるおそるレッスンにいった。すべてクリア。夜、10時近くになって家に戻るとき、身体は疲れ切っていた。ところが初台オペラシティの前を通るとき、ふとビバコのことが胸によぎり、また涙ぐんだ。身体を使っているときは、集中するから忘れていられるのだが、こうして一人で夜歩きをすると、ダメだ。思い出すと、たちまち涙……。

実は明日、能『隅田川』に誘われた。これはさすがに、お断りした。今、このタイミングで『隅田川』などを見たら、能楽堂で号泣してしまいそうだ。
大学生の頃、父親と歌舞伎を見に行ったとき、弁慶が自分の娘を娘と知っていながら、職務で殺すというような内容だったと思うが、そのシーンを見て父親が号泣し、びっくりしたことがある。声をあげて泣いていたので、ちょっと恥ずかしかった。私が大学生だったから、父親も50代の頃か……。

今、私も、当時の父親の年齢に近くなりつつ、涙もろくなっている。『隅田川』の最後の場面を見ていられる自信がない。能では物狂いの母親でも、子どもと再会すると物狂いが治ってしまったりするけれど、『隅田川』では子どもの霊を抱きかかえようとしても子どもの霊を抱くことができないのだから……。
 そんなことを考えながら歩いていると、マンションに向かう道すがら、雨上がりの夜空に雲が速い速度で動いていった。どんどん動いていく雲をみていると、驚くことに、その雲の模様が次々とビバコの顔に見えてきた。いろいろなビバコの顔が浮かんできた。

「ビバコ!」大空に向かって、ビバコの名前を呼びながら、物狂いの女のようにふらふら歩いていくと、雲の流れの一部に見えたビバコの顔が、どんどん大きくなり、雲全体に広がっていく。つまり私の上空にビバコの顔が大きく広がったのだ。空全体がビバコだった。そして、その顔は本当に、やすらかで、よく窓辺でうつらうつらしていたビバコの顔にそっくりだった。

 声が聞こえた。「ナオちゃーん」というかわいいビバコの声。私が「ビバちゃーん」と呼びかけると答えてくる声。そして、そのとき、ビバコはいった。「僕が行くとき、今日、ナオちゃんが感じたみたいに、あっという間に行っちゃったんだよ。だからちっとも苦しくなかったから心配しないでね」と……。

 ビバコが苦しかったり、痛かったりするのだけが、かわいそうでならなかったが、あの、最後の瞬間に、今日、私が失神していくような、ふっと意識が遠のくような、自然な感じて、ビバコは旅だって行ったのだろうか。
気持が楽になった。いつまでもビバコの苦しさについて悲しがっていた私に、ビバコが体験させてくれた失神だったのだろうか。「ビバコ、よかった。あんなにやすらかな感じで行くことができたのね! 本当によかった」
「うん。だからもう泣かないで……」

 私はマンションの玄関にたたずみ、しばらく空を見上げて雲が流れていくのを見ていた。旅立ちのメッセージを伝えたら、ビバコの大きな顔が、雲の流れと共に消えていった。
| - | 23:31 | - | - |
ビバコが旅立ってから3週間
 ビバコが旅立ってからもう3週間。こんなにビバコと会えない日が続くのは初めての経験だ。ビバコと出会った16年前から、旅行は極力避けてきた。
ハワイや中国への出張も1週間を限度とし、国内旅行も福岡に1週間ということがあったが、そのときもビバコに会いたくてたまらなかった。人間ならば電話で話もできようものの、「ビバコが懐かしいよ」と東を向いて遠吠えしていた。
そのときに、ビバコも西を向いて遠吠えしていたらしい。私がハワイにいって1週間家を空けたときは、東を向いて遠吠えしていたというから、ビバコには私の行っている方向が感覚的にわかったのだろう。

 昨年の10月19日に大きな発作が起きてビバコが入院してからは、約1カ月の入院生活が続いたが、そのときだって毎日午前と午後の面会時間に会いにいった。
ビバコに1日だって会えないのはつらかった。あのときは家にはいなかったけれど、明日の朝になれば会えると希望があった。でも、今は、その希望がない。
そもそもこんなに長い間、ビバコと会えないなんて、本当に不思議だ。自分で耐えられるか心配だったが、こうして時は過ぎていく。

どうにか会いにいきたいけれど、ちょっとやそっとでは行けない世界にビバコは行ってしまったのだし、私がめそめそしているとビバコが心配すると思うから、なるべく仕事と舞に専念してきた。
取材や原稿締め切りがあったので、集中して仕事ができた。頭が仕事のことでいっぱいになるから、めそめそしてばかりはいられない。さらにそのほかの時間は鳳仙功の舞を舞った。空いている時間はスタジオに通った。天女のような人々とボディワークに集中した。だからこの3週間で、体が随分変わった。

とはいえスタジオに通う道すがら、一人で歩いているときは悲しさが蘇る。特に夜のレッスンの後。一人になって歩きながら考えることといったらビバコのことしかない。
幸せだった若い頃、苦しそうだった闘病生活、そして仕事が多忙でビバコと一緒にいてあげられなかったときのビバコの寂しさ。
ひとつひとつ考えると涙があふれる。
「あのとき、どうして、もっと遊んであげなかったのだろう」
「どうしてもっと一緒にいなかったのだろう」
歩きながら涙をだらだら流しているものだから、近くを通る人がさっと走って逃げていく。お化粧は全部とれてしまうし、顔はむくんでしまう。家に帰ればぐびぐびと水を飲む。もともと私は水を飲まないほうなのだが、泣きすぎて、水分もミネラルも、すべてが出てしまうのだろう。

 今日は大きな原稿執筆が一段落したので、ビバコによせてくださった追悼のメールを整理し、ビバコにお花を下さった方達に、お返しをしようと思って考えた。
ビバコの祭壇も、あんなにたくさんあったお花がそろそろ枯れ、すっきりとなってきた。闘病中のメモや薬や、健康管理シートなどは、あの日のままになっているし、ビバコの寝ていたベッドもシーツなどは洗ったが、クッションなどはそのままだ。
今もたまに寝ているときや、お風呂に入っているときに、ビバコの声のような音を聞き、あわてて起きたり、お風呂から出ようとしたりするけれど、ビバコはもういない。どんなビバコでもいいから、もう一度、現れてくれないだろうか? いやいや。こんなことをいっていたらビバコが心配するだけだ。ビバコのために追善供養をするからね。

 そういえば先日上智の先輩であられる新井満さんの話を聞き、『千の風になって』の歌を聴いた。ビバコもまた千の風になってしまったのだろうか。その帰りに実家のビバコの墓をお参りしながら考えた。
昨日もまたお墓に行った。ビバコの幻がたくさん浮かぶ。家にビバコがいないとき、それはトリミングか病院か、四谷の実家か、どこかに預けていて、迎えに行くときは、いつもそわそわしたものだ。
 そう考えればビバコは今、あちらの世界に預けている。あちらの世界の時間はこの世の時間と異なるから、ビバコの待つ時間はそれほど長くないかもしれない。でも、やっぱり寂しいね。

 世の中には大切な人を失った人がたくさんいらっしゃる。そのような方が、どうして悲しみや苦しみを乗り越えてこられるのだろうかと思っていた。私なら死んでしまう……。しかし今、ビバコの死に対峙して、どうにか3週間を過ごすことができたのだ。絶対に耐えられないと思っていたことだが、ビバコは1年2カ月の闘病生活で、特に最後の6カ月、さらには5月に入ってからの、あの闘病の苦しさで、私に耐える力を教えてくれた。本当にビバコは名犬。すごい名犬だ。
| - | 23:27 | - | - |
祭壇
 昨日、ヒーリング音楽を歌われる島川万里奈さんの撮影と取材をした。万里奈さんから「ビバコちゃんに」と素晴らしい花束をいただいた。万里奈さんはビバコの闘病中からずっと、ヒーリングボイスの音楽や、フラワーエッセンスや、遠隔治療などさまざまな面で支えてくださった方だ。 
取材した後、次の打ち合わせまで少し時間があったので家に戻り、祭壇を作った。以前、福田純子さんたちと一緒にいったオーラパビリオンで購入した白いシーツをビバコが寝ていたベッドの前のテーブルの上にかけて、そこにビバコの写真、バビコ、ビバコの思い出の品、村津先生からいただいた花、万里奈さんからいただいた花、そしてお写経帳やお線香、お水、ドッグフードなどをおいて、ビバコの名残を惜しむと同時に冥福を祈った。



 仕事机の左に位置するこの祭壇の横を通ると、その奥のベッドにビバコが寝ているような気がして、ついついベッドをのぞき込む。
でもそのベッドには今はビバコはおらず、ビバコが子供の時よく遊んだぬいぐるみのわんちゃんが置いてある。先日、実家に埋葬にいったときに偶然、はなれで見付けたのだ。あまりに懐かしくてもってきた。
お線香をあげ、ビバコの祭壇の前に座って、長いこと考えた。私はビバコにベストを尽くしてあげられたのかと……。
至らなかったと思う忸怩たる思いと、「あのときの選択は正しかったのだろうか?」と思う選択の迷いが何点かあった。

 ひとつは、最初の発作の朝。散歩に連れ出したビバコが痙攣を起こし始めていたのに、全く気が付かず、ビバコの口の中に毛でも入ってしまって口をぱくぱくやっているのかと思ってしばらく歩き続けてしまったことだ。あのとき、もっと早く気付いていれば……。かわいそうなことをした。
それから2度目の発作の時、あのときは、ツメを切りにいった帰りに発作を起こした。なぜあの日、ツメなどを切りに行ったのか? 
しかも発作を起こした時、そのままタクシーを拾って獣医に行けばよかったものの、いったん家に戻って様子を見ようした。
なぜあんなに悠長に構えていたのだろうか。さらに5月になって食欲が落ちたときも、しばらく様子を見ていた。
様子などみないで、すぐに獣医に行けばよかったのに、「様子をみよう」という気持が仇になったのではないかと思う。

 もうひとつ、私のした選択に大きな疑問があった。それは1回目の発作の後、最初、手術は無理だといわれたものの、ビバコがすごい回復力を見せたので、獣医が「今なら手術ができる」と提案してくださったのだ。
そのとき、ビバコにこれ以上の負担をかけるのは可哀想だと思ったし、せっかく元気になったのに、もし手術が失敗してしまったら、こんなに残念なことはないと思って、手術を見送ってしまった。先生もそれ以上は何もおっしゃらなかったが、本当に、あの選択でよかったのか。もし手術をしていたら、脳腫瘍がすべて切除され、今も元気でいたかもしれないと思うことがある。

 さらに闘病中はいろいろな方が、セカンド・オピニオンを薦めてくれたり、他の医者を紹介してくれたり、さまざまな療法を紹介してくれたりした。お水など簡単に取り入れられるものはすべて取り入れ試してみたし、サプリメントや寝具については、医者のEBMのあるものを使った。
しかし、セカンド・オピニオンについては、行わなかった。遠方の獣医では、そこまで行くだけでもビバコの体力を使いそうだし、タクシーに乗せたとしても、あのような鳴き方では、タクシーの運転手も驚くだろう。入院になったら面会にいくのもままならなくなる。
しかも、人見知りのあるビバコは、今の獣医にやっと慣れたばかりなので、また他の獣医に診て貰うのも不安だったからだ。でも本当にそれでよかったか……。

セカンド・オピニオンの提案もそうだが、闘病中はさまざまな人が、さまざまな視点から、親切な気持で、心から、さまざまなことを教えてくれた。だから実際は、ある人がよいということを、ある人がよくないといったりした。そのような時に、何を基準にして考えたらよいのか、これが大きな問題だった。
何がビバコに一番良くて、何が一番幸せなのか。他の犬にはよくてもビバコにはよくないかもしれない。またビバコの意思というものもある。そこでビバコが自分の意思を言ってくれればよいのだが、話ができないとなれば、飼い主がビバコの責任者として決断をくださねばならない。そこには私のエゴや懐具合も出てしまう。でもなるべくビバコの最も欲する方法を聞いてきた。
そして今が、その結果である。

15歳11か月なのだから大往生なのだとみんながなぐさめてくれる。確かに、こんなに長生きしてくれて本当に嬉しい。
でも苦しませてしまった。PPKではなかったのが可哀想だ。もしかしたら、飼い主がもっと賢ければ、もう少し迅速な対処ができていれば、もう少し痛みを感じさせない方法で、長生きできたのかもしれない。特に足腰が立たなくなってからの6カ月は辛かったに違いない。でも毎日、「明日こそは立てる」という希望をもっていた。だからベッドも最初は床の上だった。私が見ていないときに立って、いつ歩き出してもいいように……。
ところが4月末に私が腰を痛め、中腰はよくないといわれて、5月になってから初めてベッドをソファの上に移した。介護は楽になったけれど、ソファの上に移したことで、歩くことに対する希望が薄れたように思う。ビバコの容態が一気に悪化した。全くものを食べなくなった時期と一致する。

このような流れの中で、ただ言えること。それは、すべての選択の責任は自分にあったということだ。誰かを盲信したり、だれかのせいにしたりすることなく、もしかしたらベストではなかったかもしれないが、自分で責任をもって選ぶことができたことだ。
若い頃のビバコが私の声を必死で聞いてくれたように、私も介護しながらビバコの声を必死で聞き、なるべくビバコの求めることをしてきたように思うのだが……。ビバコと見つめ合って過ごした200日弱の夜が懐かしい。そして今、静かな気持で祭壇の前に座り、今もまたビバコの声を聞こうとしている。
| - | 23:09 | - | - |
1週間経過
 しめやかな雨の降る朝。昨晩は、ビバコのベッドからビバコを抱き上げて、私のベッドに連れて行き一緒に眠った。ビバコが夜中にたった一匹で訴えるように鳴いていたのは、私と一緒に眠りたかったからだったということが伝わってきた。かわいそうなことをした。
 朝になり、眼が醒めるとビバコは私の横で眠っていた。ベッドから起きると、かつてのようにぴょんと飛び降り、私の後をついてきた。祭壇にいって餌とお水、お線香をあげた。
ビバコは、「僕は横にいるよ」といって私のお尻を鼻でつついた。こんなに泣いてばかりいては、ビバコが成仏できないね。今日で1週間。もう本当に泣くのは止めようね……。
午前8時53分。先週の朝、久しぶりにビバコを膝の上に抱き、原稿を書いていたが、容態が悪く苦しそうになったので、ベッドに戻した頃だった。

 私はビバコと一本の道を歩いていた。前には透明な硝子が立って道を遮っていたのに、私達は気が付かず、ビバコはすたすたと歩いて硝子の中に入ってしまった。
しかし私が通過しようと思っても、その硝子にぶつかって中に入ることができなかった。透明な硝子をどんどん叩いて「ビバコ、戻っておいで、戻っておいで」と叫んでいた。
ビバコはすぐに私がいないことに気が付いて、後ろを振り向き猛烈な勢いで走ってきた。しかし、そこには透明な硝子が立ちふさがり、もはや戻ってはこられない。どうにか硝子を打ち破ろうと硝子に鼻を押しつける。
お互いに硝子をはさんで、もがいていたが、やがてビバコは諦めて、そこにお座りして待っている。かつてトリミングに預けてお迎えにいったとき、硝子越しに涙を浮かべてじっと待っていたように……。

 昨日まで一緒に歩いてきた道なのに、透明なガラス戸の向こうに行ってしまったビバコ。見ることはできても、もう触れることはできない。この1週間、ビバコは硝子の向こう側にお座りしてずっと待っていたが、そろそろ諦め、振り返りながら去っていく。ビバコを迎えに来た人は、ビバコのブリーダーの楠木さん? 阪神大震災はご無事に乗り越えたものの、その後、連絡がとれなくなった……。ビバコを愛して、譲ってくださった方だった。

 いつもビバコと別れるとき、ビバコは名残惜しそうに私のことをじっとみつめていたが、やがて諦めると、後ろを振り返りながら、私の元から去っていった。下がっていた尻尾をぴんと立て、「大丈夫だよ」と合図して。
でもそれは、後でまた会えるという了解と信頼のもとで……。
今回の別れだって、後でまた会えるのだ。ただ会えるまでの時間が長いだけ。今までは数時間や数日間待てば会えたけれど、今度は数年間、数十年間かもしれない。でも必ず会える。そのことだけは信じられるけれど、その時の空白をどのようにして偲んでいったらよいのだろう。あまりに寂しすぎる。

ビバコが逝った時間、多分先週の10時7分頃。その時間にお線香をあげて般若心経を唱えた。周辺はきれいにお掃除をしてお花の水もとり換えた。ビバコの冥福を祈ってからお風呂に入り、風呂場をきれいに洗った。霊になったビバコは家中を歩き回るだろうから、汚れていたらかわいそう。そしてお風呂から出て祭壇を拝んだら、きゃんきゃんと犬の声が聞こえてきた。ビバコに似ている声……。外で鳴いているのかと思って窓を開けた。
外からは雨の音と鳥の啼く声しか聞こえてこない。あんなにはっきりと、確かに聞こえてきたのに、もしかしたらビバコ? そういえば、6月1日に代々木八幡でお参りをしたときも急に犬が鳴いた。偶然だと思っていたけれど、もしかしたら、ビバコ? 


| - | 23:29 | - | - |
モーニング・ジュエリー
 眼が醒めたら午前3時少し前、いつもビバコが激しく鳴いて、起こされていた時間だった。どうしてこの時刻になるといつもあんなに鳴いたのか……。そんなことを考えながら、ビバコのベッドに行って、手を合わせた。
 昨日は福岡の村津先生が追悼のために、素晴らしいお花を贈ってくださった。以前、奥様と愛犬談義をしたことがある。そこで今回、ビバコを応援してくださった方のみにお送りしたメールでお知らせしたところ、思いもかけずに素敵な白いお花が届いた。本当に嬉しく、涙が出た。ビバコの寝ていたベッドサイドがひときわ美しく輝いた。

ここは今や祭壇のようになり、お花や、ビバコの写真や、思い出の品、ビバコがよく遊んだぬいぐるみや、「バビコ」といって、ビバコの闘病中、ずっとビバコを守ってくれたわんちゃんの置物などで飾られている。



 パソコンの前に座って仕事をしようかと思い、ふと気が付けば、何と、緊急で書かねばならぬ原稿がなかった。こんなことはあり得ないことだ。本当に不思議なことだ。
27日の朝、単行本の原稿を書き上げ、メールで送った時、送信時の時間とほぼ同じタイミングでビバコは旅だった。
そしてその日から3日間、大きな仕事の予定はなく、取材も打ち合わせも締め切り原稿に追われることもなかった。
今日の午後からまたいろいろな仕事が入ってくるのだが、この3日間、仕事のことを考えることなく、ビバコとともにだけ居られ、泣きに泣いた。ビバコは、ここまで計算して旅立ってくれたのだろうか。なんて優しくて、賢くて、飼い主思いの子なんだろう。

5月は実に多忙だった。3日におさらい会で舞囃子の『杜若』を舞った。10日は『能リア王』のお手伝いのアナウンス、翌日は国際融合文化学会での発表、12日はヒューマンギルドでの講演、16日に新刊『眠る前の7分間!』の見本が出、『ゆうゆう』という雑誌で、朝時間の過ごし方の取材を受けた。
さらに5月末が締め切りの単行本の執筆にかかりきりになり24〜25日と下仁田への旅行があった。特に下仁田に行った時は、2日間家を空けたのでとても心配だったが、ビバコは頑張って待っていてくれた。

 下仁田から戻ってきたときは、かなり衰弱が激しかったが、それでも生きていてくれた。
でも、このときは、もう強引に生きることを求めることはできなかった。
ビバコがあまりにも苦しそうだったので、できる限りのことはするけれど、後はビバコの意思に任せようと思っていた。
それまではビバコが生きてくれることだけを願ってきた。闘病中に2回ほど、黄泉の国まで行ってビバコを半ば強引に連れ戻したような気さえする。昨年3月と10月の大きな発作の時だった。ずっと、ビバコと共にいたくて、力づくでも、この世に縛り付けていたかった。私の命と引き替えでもいいから、いつまでも生きていて欲しかった。でも今回は、もはや、その強引さを出せなかった。ビバコの衰弱ぶりとビバコの決心が固かった。

延命と若返ることは違う。加齢は過酷で、不可逆なものだ。もうビバコは若返ったりはしない。昔のビバコに戻ることを期待してはかわいそうだ。1度目の発作の後、ビバコがとても元気になったことがある。でも足腰が弱ってきて、あるとき、私の所にこようとしたら、後ろ足が立たず尻餅をついてしまった。
そのとき「え? どうして?」と不思議そうな顔をして、驚いたように私を見つめた。「どうして尻餅をついちゃうの?」といいたげなビバコの顔は切なかった。
闘病中に、よくなることを願うことはできたけれど、しかし昔の元気なビバコを望んでも、あの若い盛りのビバコには決して戻ることはない。こればかりは逆らえない。

ビバコの闘病中、私はこの日記をあまり書けなかった。理由は2つある。ひとつは、闘病しているビバコにたいして、励ますのが精一杯で、主観を入れた日記を書くことなどはとても不可能だったからだ。
もちろん記録はつけていた。何時におしっこをして、何時にうんこをして、いつ痙攣があって、というような健康管理の記録は日々つけてきたが、これは公開するものではない。 

もうひとつの理由は、ビバコの生きる勇気やエネルギーや苦痛をリアルタイムで記録するには、あまりにも言葉が薄っぺらなような気がしたからだ。ビバコの闘病は神聖すぎて、言葉に落とし込めなかった。それにビバコの最後の闘病の姿を書くのはあまりにも痛々しい。記録のために写真を撮るのも止めた。
かつての思い出に浸ることもしなかった。昔のビバコを思い出すことは、闘病している今のビバコを否定してしまうことになる。現実のビバコを応援し、励まし、見守ることが、何よりも今のビバコにとって必要だった。
今の苦しんでいるビバコをそのまま受け入れ、肯定することだ。それ以外のことを望んでも、ビバコがかわいそうだ。

ビバコが闘病中の6カ月は、寝ている姿しかみていないから、外を歩いている犬が元気にジャンプしたり、走ったりしているのを見ると驚いてしまうようにさえなった。すでに家の中でビバコが歩いたり、走り回ったりしていたことすらもすっかり忘れていた。
でも不思議なことに、ビバコを埋葬した夜から、昔のビバコがたくさん現れた。元気で若くて、エネルギーに満ちあふれているビバコだった。家の中でいつも私の後をついてくるビバコだった。私がお風呂に入っているときは、いつも脱衣所でくんくんいいながら待っていた。トイレにもついて入りたがって、トイレの外からカリカリ音をたてて戸を開けようとしていたことや、家に帰ると玄関で待っていてくれたことや、私の足下や、お尻の後ろで居眠りをしていたビバコや、庭に出たくて、網戸を開けようとしている姿や、庭で雑草を食べていたビバコ……。16年間の歳月がどっと流れ込んできた。

 亡くなるってこういうことなんだ。現実生活では大切なビバコの存在を当たり前のことのように感じていた。だから多忙を極めると、一緒にいても意識は共にいないこともあった。
 しかし亡くなってしまって今日で4日、ビバコの思い出だけを噛みしめてきた。濃密なビバコと過ごす時間だった。
闘病中に封じ込めてしまった思い出が次から次へと現れ、たくさんのビバコが私の前にあらわれて、おどけて見せたり、笑ったり、怒ったりしていた。
お悔やみのメールでもビバコとの思い出を書いてくれる人がいて、それを読むと、「ああそうだ。そんなこともあったね。ビバコ」と、当時のビバコはもちろん、当時の若かった自分のことまで思い出された。

時間が流れるって、こういうことなんだ。ビバコとは長い時間を共有したが、ずっと相思相愛で、毎日、ビバコが大好きだった。
初めて家にきた翌朝、ビバコに朝の挨拶をして以来、朝起きてビバコと挨拶できる日は、それだけで幸せだった。
思えば子供の頃からチワワが欲しくてたまらず、かわいい犬のぬいぐるみを大切にしていたが、その後、30数年の夢が叶って、やっと巡り合ったビバコだった。あの時の犬のぬいぐるみにそっくりの子だった。
ビバコは夢の実現と愛と信頼と勇気を教えてくれた。本当にありがとう。ビバコ。

 ビバコに会ったのは1992年8月24日。飛行機でたった一匹、神戸からやってきた。当時の私は心身共に健康を害していて自分に自信が全くもてない時期だった。
ところがビバコと会うやいなや、ビバコは私を受け入れて、すぐに信頼し、絶大なる愛を注いでくれた。こんな私をこんなに愛してくれるなんて! そのときの喜びといったらなかった。そして、いつしかビバコから愛と信頼を学び、それから私の人生も大幅に変わっていった。ビバコはまさに天使だった。本当に美しくてかわいい天使だった。

翌年の11月2日に、ビバコの瞳のようにきれいなブラック・サファイヤのリングを買った。この指輪は長いこと使わないでいたが、モーニング・ジュエリーとして、しばらく身につけようと思う。
それからもうひとつ、2004年12月に1880年頃に作られたローズカットのダイヤモンドがついているロケットを買った。
このロケットを買うとき、アンティークを扱っている方から「こんな素晴らしいロケットを手に入れられてよかったですね。どなたの写真を入れるのですか?」と聞かれた。そのとき即座に答えたのが「ビバコ」だった。
結局、すぐに写真は入れないで使っていたが、今回、ビバコのメッセージとして、「毛を切り取ってもっていて」というのがあったので、美しい金色の毛を少しいただき、ロケットの中に入れた。このロケットを胸にさげると、ビバコのぬくもりが伝わってくる。

火曜日の10時から起きた一連のできごとは、まるで夢の中のように、現実味がなく、不思議な感覚だ。まるでビバコと共に悲しい異次元の空間に入ってしまったみたいだ。
今、こうしていても、たまにビバコのため息のような声が聞こえて、思わずビバコのベッドを見にいってしまう。
そこにビバコの肉体はなくても、ベッドに触れると、まだぬくもりが感じられる。
窓を開けると、ビバコが遊んだ庭の植物も喪に服してくれているように寂しげだ。
かつてビバコが私の不在時に遠吠えをして悲しさを表現していたように、私も「ビバコ、帰ってきて」と庭に向かって遠吠えをした。

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ペットの死ということ
ビバコの訃報については、最初はビバコの闘病を応援してくださった方に、そして次は、出版の案内と共に、いつもお世話になっている方にお送りした。
今度出版した『夢を叶える! 更年期レッスン』(日本教育研究センター)は、ビバコが完全介護になった最後の闘病中に書いたもので、本文の大扉にはビバコの写真まで入っている。特にビバコの思い入れの強い本になったために、そのことも書いて案内した。
すると、また多くの方から、ビバコの追悼メールをいただいた。ビバコの死をこんなに多くの方が偲んでくれ、そして体験を語ってくれるなんて……。ありがたいことだ。

 ビバコの闘病中、獣医さんで3回ほど号泣している家族をみかけた。最初はビバコがICUに初めて入院した時。すごくきれいな瞳を開けたまま眠っている猫がいた。「なんてきれいな瞳なんだろう」と思って見ていたら、どやどやと男性、女性、そして2名の子供が入ってきて、猫のところで泣き崩れた。そのとき、亡くなったのだと初めて理解した。
 2回目は、ビバコの2回目の入院時だった。ビバコの面会時間を待つために、待合室にいるときだった。ソファで泣き崩れている家族がいた。そして、その前に段ボールがあった。まさか、ビバコがあんな姿で出てきたらどうしようと、めまいがするような気がした。

 3回目は、ビバコが入退院を繰り返していた時だった。夜中に発作を起こし獣医に向かった。深夜の水道道路はひっそりとし、裏口から獣医の中に入ると、がらんとした待合室に若いカップルがいて、絶望的な顔で座っていた。しばらくして係の人が段ボールを抱えて階段を下りてきた。カップルはその中をのぞき込んで号泣した。そのとき、私はビバコを抱きしめ、「絶対に黄泉の国は行かせまい」と固く誓った。そして病院で亡くなってしまうことだけはいやだと思った。絶対に自分の胸の中から旅だって欲しいと……。

 それにしてもビバコ闘病中1年2カ月の間に、今まで元気だったのに突然亡くなったペットや人がたくさんいた。そんな訃報を聞く度に、ビバコを抱きしめ、ビバコを守ろうと思ってきた。ビバコもよく頑張って、たとえ厳しい闘病をしていても、ゆるやかなソフトランディングをしてくれた。しばらく小康状態が続き、あるときぐっと悪くなるが、また少し持ち直し、小康状態が続き、またあるときぐっと悪くなり、また小康状態が続くという形で一喜一憂しながらでも、別れの覚悟に導いてくれた。こうして私を最終的に納得させた。本当に飼い主孝行なビバコだった。

ビバコを埋葬した水曜日は晴れていたが、翌日から雨が続いた。でも今日は久しぶりの快晴で、気持がよい。それにお一日だから、代々木八幡の神社にお参りにいった。
一人で行くのは寂しいから、ビバコのリードを取り出した。昨年の10月19日にビバコが発作で倒れてから、二度とすることなく逝ってしまったが、いつもしていたお気に入りのリードだ。それをしっかり握りしめた。
日曜日の朝は静かで、犬の散歩をしている人もいる。ビバコ闘病中は、ほかの犬をあまり見ないようにしていたが、やっと他の犬にも挨拶ができるようになった。リードを持つ手の先には、ビバコが歩いているようだった。だらだらと涙が流れた。

代々木八幡でお参りをしてから家に戻ると鳳仙功の踊りのレッスンにいった。ビバコ亡き後、私は踊ってばかりいる。踊って自分の肉体を調整しているときだけは、悲しいことを忘れられる。
しかしスタジオで顔を見て、驚いた。涙が伝った後の頬には縞々模様がついており、目は金目鯛のように真っ赤だった。しかも腎臓が悪いのか、真っ黒の顔。これは尋常な顔ではない。こんな顔をして歩いていたのだ。
しかも先日は泣きながら「ビバコ、ビバコ」と口ずさんでいたから、後ろから歩いてくる人が、気味悪そうに逃げていった。これでは本当に物狂いの女そのもの……。

午前中のレッスンが緒わって家に戻ると、江口さんが送ってくださった江原さんの本が届いた。ペットとのスピリチャルな暮らしを書いた本だった。午後のレッスン前に本を読んだ。そして、いつまでもくよくよ泣いていたらペットが成仏しないと知って、気持を改めた。いつでもビバコの幸せを願っている。だからビバコの幸せのためにはもう悲しまないと決心した。とはいえ、そのとき、チャイムがなって大学院の学友、川田さん、星野さん、菊地さんから美しい追悼の花が届いた。花を受け取るやいなや涙があふれた。今日もたくさんの追悼のメールが届いたが、こうしてビバコの冥福を祈り、励まして下さる多くの人がいることが本当に嬉しかった。

ビバコは亡くなってしまったけれど、たくさんの人からのメッセージやプレゼントをいただいた。私達を支えてくれた人々の励ましの声は愛にあふれている。本当に嬉しいね。ビバコは世界1幸せな子だね。私も、もうビバコが心配しないように、頑張るからね。
でもちょっと心配。だってビバコがこの世にいるとき、最大で1週間会えないときがあったけれど、あのときは本当に寂しかった。
その後、ビバコが入院して家にいない時だって、毎日、病院に会いにいっていた。だから、これからずっと会えないなんて、初めての経験。はたして耐えていけるだろうか……。もう少しだけそばにいてほしい。ビバコ。
| - | 22:39 | - | - |
ビバコがいない朝
ビバコを埋葬して迎える初めての朝。雨が降っている。ビバコ、寒くない? でもビバコは、今、あのお墓にはもういない。
本当に「千の風」になって、私の足下でくつろいでいる。昨晩も何回か聞こえたビバコの吐息。ビバコ、今、ここにいるよね。

 昨夜は、眠るのが本当に怖かった。本来ならば眠るのが大好きな私なのに、初めて眠りたくないと思ってしまった。だって眠ってしまったら、1日が終わってしまうから。
昨日の埋葬が現実のものになって日が刻まれてしまうから。
もし眠らなければ、あの埋葬は悪夢の中のできごととして、いずれ目が覚めるのではないかと期待できるのに……。

ビバコの介護ではよく明晰夢を見るようになっていた。夜中にビバコが歩いている姿を見て、「ビバコ、歩けるようになったのね。これって夢じゃないわよね!」と抱き上げ、自分の頬までつねって確認したことがある。
そこまでしたのに、やがてその場面が水のように流れていき、それが夢であることがわかったときの落胆と失望。
そんなことが何回かあった。本当にがっかりしたものだが、今回のこの埋葬こそは、夢であってほしかった。いつかこの悪夢が覚めないかと思いながら、悲しい1日を過ごしたのに……。この悪夢は、決して覚めてくれなかった。

 朝、起きて、「あ、ビバコの様子はどうだろう?」とあわててベッドから飛び起きようとし、すぐにビバコのいないことに気が付いた。ビバコのベッド周辺は、まだそのままになっており、そこにビバコの肉体はないのだけれど、ビバコの気配はそこにある。
自分のベッドの中で、我に返り、もはやビバコの介護は終わったのだと思っていたら、イメージのビバコが私のベッドの横に歩いてやってきた。そして飛び乗りたそうに、うろうろしている。昔のままの幸せな朝だった。
私はかつてよくしたように、ビバコが飛び上がるのを片手でサポートし、ベッドに飛び乗ったビバコを胸に抱きながら、しばらくビバコとともにまどろんだ。
平和な朝が戻ってきた。でもビバコは、もういない。涙があふれてきた。

 ビバコの闘病中に、何回が大泣きをした。大の大人が、子供のように声をあげて号泣し、泣きじゃくってしまうのだから、その異様な姿には自分でも呆れてしまうほどだった。
最初はビバコが大発作を起こした時。ビバコが入院して、初めて離ればなれになった1週間。本当に寂しくて泣いて暮らした。
毎日、午前と午後、獣医に面会に行く道すがら、涙をだらだら流しながら歩いていた。
道行く人が不審に思ってもかまわない。ビバコの安否を気遣い通った水道道路は、まさに「涙の道路」となった。

 次に大泣きをしたのは、この5月になってから。ビバコの飲まず食わずの日が続き、痙攣も起こすようになって、時には死んだかのように眠り、夜鳴きさえしないことがあった。
ある晩、いつものように眼が醒めた。そろそろ夜鳴きをする時間なのにいやに静かだ。
ベッドの中で不安になった。見に行きたいけれど、電気を付けたら起きちゃうし……、しばらく待っていたのだが、あまりに静かなので、不安な気持ちにかられてしまった。そこでおそるおそる起きて様子を見に行った。
ひっそりとしている空間で、ビバコの顔をのぞき込むと、かわいい寝息をたてていた。そのときの嬉しかったこと。思わず大声をあけて「ビバコ、生きているのね、ありがとう!よかった、嬉しいよ」と、泣いてしまった。
眼が醒めたビバコは私の顔をじっと見ていたが、ビバコの瞳にうっすらと涙が浮かんだ。

 それからもう1回、やはり5月になってビバコの衰弱が激しいとき、ビバコが生きていることが嬉しくて大泣きをした記憶がある。
その日は、用事が重なって、長時間、家に帰れなかったのだ。いつもなら、アポは重ねていれたりせずに、ひとたび家に戻ってビバコの様子を見てから出直すのに、その日は、それができなかった。用事が終わると、『走れメロス』のような勢いで家に戻り、玄関をあけた。そのとき、部屋の奥からビバコの鳴き声が聞こえてきた。嬉しかった!
あまりの嬉しさに靴も鞄も上着も投げ捨てて、ビバコのベッドに走っていった。床にしゃがみ込み、その場で大泣きをしてしまった。「生きていてくれてありがとう! ありがとう! よかった。嬉しいよ」と子供のように声をあげて泣いていた。

そしてもちろん、ビバコが旅だった時も泣いた。でも正直言って、この時の記憶は、定かではない。あの「時」の気持や自分の行動は、はっきりと思い出せないし、言葉にも表せない。あの時、あの日、もしかしたら自分は頭がおかしくなってしまうのかもしれないと思うような奇妙な行動をし、変なことを口走っていた。正気ではなかった。自分の中の何かが切れてしまうのではないかというような、危うい精神状態で、まるで夢の中で、ふわふわと過ごしたような記憶しかない。まるで「物狂い」の女だった。
ビバコの死を受け入れたくない気持が強くて、大脳さんが忘れさせてくれているのだろう。2008年5月27日という日は、私にとって、特別な意味をもつ日となった。

そしてもう1回の大泣きは、昨夜のことだ。代々木方面から自宅に戻る道だった。明治神宮と西参道を結ぶ道は広くて、人もそれほど歩いていない。しかも高速道路の下なので、そんなに明るいというわけでもなく、車が走っているので、騒音もある。声を出して謡ったりすることもできるような道なのだ。
その道を歩いていたら、家に近づくにつれて、ビバコと一緒に散歩した思い出がわき起こってきた。目の前に、満面の笑顔で走ってくるビバコが見えた。ビバコは本当にかわいい犬だった。親の欲目ではない。いつだって散歩の途中で「かわいい、かわいい」と多くの人から声をかけられたものだ。
そのかわいい笑顔のビバコが一目散に走ってきた。そして私に飛びついた。もう闘病生活をしているときの苦しそうな顔ではなく、元気なときのはつらつとした姿だった。

「ビバコ!」と抱き上げようとした。でも能の『隅田川』のように、ビバコの幻はあちこちに逃げてしまう。「ビバコ! ビバコ!」と声を出して呼び、大泣きをしながら歩き続けた。「ビバコに会いたいよ、会いたいよ〜」と子供のようにだだをこねて泣きじゃくった。
自宅に近づくにつれ、ビバコのおしっこした電柱や、散歩中にビバコが発作を起こした場所が見えてきた。そしてビバコと共有した16年という時間が洪水のように一気に流れ込んできた。かわいいビバコが走ったり、うんこをしたり、吠えたりしていた。闘病生活中はすっかり忘れていたビバコの元気な姿だった。赤ちゃんの時のビバコ、少年の時のビバコ、かわいい盛りのビバコ、男盛りのビバコ、年をとったときのビバコ、すべてのビバコが時を超えて目の前に現れた。ビバコの七変化した姿が一挙に浮かんで見えてきた。

 ビバコの旅立ちに際して連日、多くの方から励ましのメールをいただいている。その言葉を集めた文集を作ろうかと思っている。
そのなかで、多くの方が、「ビバコちゃんは天使になったんですね」といってくれる。
生きている時からビバコは天使だったけれど、今は本当の天使となった。ビバコは私の王国だけの住人になり、もうこちらの世界には一緒に戻ってきてくれない。
ビバコの最大の優しさは、自らつらい闘病生活を選んで、残される者の悲しさを和らげてくれたことだ。最初の発作の時に、もし亡くなってしまったら……。それを考えるだけで恐ろしくなる。あの時、いきなり別れがきたならば、この悲しみと寂しさには絶対に耐えられなかったことだろう。

あれから1年2か月。ビバコは私に素晴らしい「時」をプレゼントしてくれた。それは「現実を受け止める」力を与えてくれたこと。
徐々に彼岸を目指しながら、私の執着を断ち切ってくれた。優しいビバコは別れの辛さを緩和するために、自らの肉体の痛みを受け入れてくれたのだ。
4月の終わりに寝不足と夜中の介護で私がひどい腰痛になり、介護もままならない状態になったとき、ビバコは決心したようだ。
ビバコはきっぱりと旅立つ準備をして、5月に入ってから何も食べなくなった。あえて苦しむ姿を私に見せ、彼岸に行くことを認めさせた。みごとな死に様だった。ビバコ。決して忘れない。私も見習うわ。

今、ビバコの不在をなぐさめるのは、ビバコのことを書くことだけだ。ビバコのことを書いているときは、ビバコと共にいられるから。そんな時、ビバコは私の足下に座って、かつてのように幸せそうにまどろんでいる。
ビバコという素敵な犬がいたことを、忘れないために、ビバコの16歳の誕生日までは、日記を続けようと決心した。
そしてもうひとつ、ビバコがもっともっと幸せになって、心やすらげるように、追善供養をするからね。ビバコ、待っていてね。もう一度会える日まで。

| - | 07:15 | - | - |
ビバコの埋葬
 ビバコが亡くなったとメールで知らせたら、特殊な能力のある方が、ビバコの霊とコンタクトしてくれた。そしてビバコからのメッセージを伝えてくれた。いくつかあったけれど、そのなかのひとつが「土葬にしてほしい」ということだった。家には庭があるけれど、マンションなので、庭は共有部分。
そこで実家に埋葬してもよいか聞いてみた。ビバコは子供の頃、実家にもよく遊びに行ったから、両親のことが大好きなのだ。両親も「まるで孫のようだ」といってビバコをかわいがってくれた。だから実家に埋めることにも快く賛成してくれた。特殊な能力のあるMさんは、さらにビバコとコンタクトをとってくれた。するとビバコは実家の西の隅に埋めて欲しいといったという。そこで昨日、実家にいって調べてみたら、西の方角に、「ここだ」と思われる場所があったので、そこをビバコのお墓にすることに決めていた。

とはいえ昨夜は、泣いて泣いて泣きまくっていた。顔が塩辛くなってしまうくらい泣いて、結局、眠ったのが朝の5時。とはいえ、その2時間後の7時には目が覚めた。
いつものようにビバコの様子を見に行かなくちゃと、ビバコが鳴いているのではないかと案じて耳をすました。でも、気が付けばビバコはすでに亡くなってしまったのだ。何とも言い難い気持になった。ビバコのベッドに行くと、すでに冷たくなったビバコが寝ていた。とはいえなんだかふんわり温かい。
「ビバコ、本当は生きているんじゃないの?」 何度も体をさすってみた。

先日、友だちが送ってくださった美味な空豆が入っていた段ボールが、ちょうどピッタリサイズでビバコの棺となった。美しいスカーフと真っ白なタオルでビバコを包み、段ボールにはたくさんの花を散らして、蓋を閉めた。ビバコの顔はとてもやすらかで、今にも目を覚ましそうなのに、頭をさすっても、肉球をさすっても決して動いたりはしなかった。

ビバコの棺を風呂敷で包んで、タクシーを拾い実家に向かった。実家に着くと、すぐに庭に出てお墓を掘った。土を掘りながらも、涙が溢れて止まらない。そしてビバコをその穴の中に埋めるとき、名残惜しくて何度も何度も顔を見て、触れた。上から土をかけるとき、最後の最後までビバコの顔の周辺に土をかけることができないでいた。ビバコの顔は白い布にくるまれてはいたけれど、その白い布の上に土をかけるには勇気が必要だった。それはビバコとのお別れの儀式だった。
ビバコのお墓が出来上がると、近くのマーケットにいって、腕一杯に抱えるほどの花を買った。ビバコの墓を飾り、最後の挨拶をした。美しいビバコ。天使のようなビバコは、本当に天使になってしまった。

ビバコの晩年は、本当に弱り切って、ほとんど寝たままの生活になっていた。でもどのような状態でも「生きている」ということは、希望がもてた。どんなに衰弱していても、どんなに弱々しくなっていても、「明日は奇跡が起こるかも知れない」という希望を持つことができたのだ。でも亡くなってしまったら、すべての希望が去ってしまった。
ビバコが入院しているとき、家にビバコがいないのは本当に寂しかったが、でも明日の朝になれば面会にいけるという希望があった。だから寂しくても我慢ができた。でもビバコは、もうこの世にいない。そう考えると、どうしようもない悲しさに襲われる。

あまりに悲しくなったので、薬師寺の東京別院に行き、お写経をした。薬師如来の慈悲深いお顔を拝み、涙をぼたぼた垂らしながらお写経をしていると、ふと、ビバコのために追善をしようと考えた。追善とは亡くなった人が、天国に行けるように、この世に生きている人が良いことをして、サポートをすることだ。ビバコはいい子だから天国に行けるだろうけれど、でもさらに安らかになれるように、私は追善供養をしようと心に誓った。そうすれば、亡くなったビバコのためにこれからも生きることができるのだ。
やっと、生きる希望が湧いてきた。
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